プライベート・ライアン ノルマンディー上陸作戦 実話

 

ノルマンディ上陸作戦の最激戦地オハマ・ビーチ—。連合軍は、ドイツ軍の激しい抵抗に遭い、甚大な損害を被った。レインジャー部隊のミラー大尉は、上官から極秘命令を受ける。それは、敵地の奥深くに降下した空挺部隊の兵士ライアンを捜し出し救出することだった。。。

 

合衆国大統領は、戦争に参加して戦死した兄弟たちの最後のひとり、ライアンをどうしても生きて両親の元に帰らせなければならない、とミラー大尉に任務を与える。しかし、たった一人の若い兵士のために何人もの兵士が命がけで戦場を駆けることに意味があるのか?彼と部下たちは過酷な現実の中で何度もそう自分に問うことになる。

小説では映画の音と映像の迫力は失われたが人間関係はしっかりと把握できた。それにより、映画よりもミラー大尉が人間味のある人物に見えた。

そしてこれを読んでアパム伍長のイメージが映画の時と全く変わる。あるいは映画とは内容が違っていたのかもしれない。映画を見る限りでは彼は逃げるばかりで戦闘の役に立てず、それどころか彼が弾薬を届けなかったばかりに仲間が死んでいったように見えた。しかし小説ではその役目をきちんとこなし、仲間と一緒に逃げ出している。映画の、敵から隠れて頭を抱えているアパム伍長の姿というのはかなり考えさせられるものだったけれど、どちらかを選ぶのならやはりこちらがいい。

小説は、リアルさという意味では全く映画に叶わない。いくら文章で残酷な描写が飛び出しても、それが映像として目に飛び込んできたときのインパクトには劣ってしまう。どちらが良いとか悪いとかという問題ではなくて、最初の30分、オマハ・ビーチでの惨劇は、映像だからこそあそこまで残酷に、容赦なく、その重さを伝えられたのだなと実感しました。

物語はこんな感じです。

 

ここからはノルマンディー上陸作戦にふれます。

 

 

第二次世界大戦中の1944年6月6日連合軍によって行われたドイツ占領下の北西ヨーロッパへの侵攻作戦。正式作戦名「ネプチューン作戦

最終的に200万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってフランスコタンタン半島ノルマンディー海岸に上陸した。現在に至るまで歴史上最大規模の上陸作戦である。

本作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空襲艦砲射撃、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。上陸作戦に続くノルマンディー地方の制圧にはドイツ軍の必死の抵抗により2か月以上要した。

ノルマンディー上陸はヨーロッパ戦線の転機となった作戦であり、第二次世界大戦中最もよく知られた戦いの一つでもある。本作戦で用いられた用語「D-デイ」は作戦決行日を表し、現在では主に作戦開始当日の1944年6月6日について使われる。

1944 NormandyLST.jpg 

1941年のバルバロッサ作戦によるドイツ軍ソ連侵攻以来、ヨーロッパ本土でのドイツ軍戦力のほとんどがソ連に向けられていた。ソ連ヨシフ・スターリンは危機的な状況を緩和するため、イギリスやアメリカに対してヨーロッパに第二戦線を築くことを要請していた。

イギリス軍は第一次世界大戦同様に正面からの攻撃を繰り返すのではなく、ヨーロッパを周囲から攻撃することを提案した。アメリカ側は前線の延長を望まなかったことと、イギリスの勢力拡大意図について心配したため、ドーバー海峡を渡っての上陸作戦を行うようイギリス側を説得した。

ドーバー海峡を渡っての作戦は、1942年中にブレストシェルブールへの(本格的反攻ではない)限定的上陸のスレッジハンマー作戦、1943年以降の北フランス上陸のラウンドアップ作戦が立案、また周囲からの攻撃では北西アフリカ上陸のジムナスト作戦、ノルウェー上陸のジュピター作戦が立案されていた。

しかしスレッジハンマー作戦は準備期間が短すぎ、上陸しても半島に閉じ込められるだけで吸引できるドイツ軍兵力が小さいことから早々に放棄された。またジュピター作戦も放棄。結局北アフリカのドイツ軍を排除するトーチ作戦(ジムナスト作戦から改称)が実行され、ラウンドアップ作戦は1943年以降になる事となった。結局ラウンドアップ作戦は1943年中に実施できない事が判明したため、1944年までずれ込み、作戦名も「オーバーロード作戦」に変更された。1943年には北アフリカから北上した連合軍がイタリアに上陸したが、戦線は動かなかった。

1943年11月28日テヘラン会談において、アメリ大統領フランクリン・ルーズヴェルトイギリス首相ウィンストン・チャーチルヨシフ・スターリンソ連議長が討議し、1944年の5月には第二戦線を開くことが正式に合意された。

連合軍の計画

計画立案のプロセスは連合軍総司令部のスタッフによって1943年の1月に始められた。1944年4月28日には南デヴォン上陸演習タイガー演習」が行われたが失敗し、749人のアメリカ軍の死者を出した。連合軍上層部はこの失敗がドイツに伝わり、大規模な上陸作戦の用意をしていることが露見することを恐れた。しかしドイツ軍情報部はそこまでの詳しい情報はキャッチしていなかった。

イギリス本土基地からの連合軍戦闘機の航続距離は上陸地点の選択を非常に制限した。地理学的に上陸地点はパ・ド・カレー(カレー港)とノルマンディーの2地点に絞り込まれた。パ・ド・カレーがイギリス本土から距離的に最短であり上陸地点として最適だったが、当然の事ながらドイツ側も連合軍によるパ・ド・カレーへの上陸を警戒しており、その防御が強力だったため、連合軍は上陸地点にノルマンディーを選択した。

1942年のカナダ軍ディエップ攻撃での失敗から連合軍は、最初の上陸でフランスの港を直接攻撃しないことに決定した。ノルマンディー正面への広範囲な上陸は、ドイツ軍にとってブルターニュ西海岸のシェルブール港と、パリからドイツ国境へ向けての2つの攻撃の脅威となることが予想された。ノルマンディーはドイツ軍の布陣が薄く、上陸は予想されなかった地点であったが、戦略的にはドイツの防御を混乱させ分散させる可能性を持つ攻撃地点であった。

作戦

1943年12月に連合国遠征軍最高司令部最高司令官としてドワイト・アイゼンハワーアメリカ陸軍大将が、1944年1月には本作戦の地上部隊最高司令官である第21軍集団司令官にバーナード・モントゴメリーイギリス陸軍大将が任命された。

計画の段階で海からの上陸が3個師団、空挺部隊が2個旅団要求された。モントゴメリーはすぐに初期攻撃の規模を海からの攻撃を5個師団、空からを3個師団増加させた。合計で47個師団の投入が承認された。内訳はイギリス軍、カナダ軍、自由ヨーロッパ軍26個師団にアメリカ軍21個師団である。

提督バートラム・ラムゼー卿指揮下で上陸用舟艇4,000隻および艦砲射撃を行う軍艦130隻を含む6,000を超える艦艇が投入された。陣容は戦艦アーカンソーネヴァダ、テキサス、ウォースパイト、ラミリーズ、ネルソン、ロドニー、重巡洋艦5隻、軽巡洋艦20隻、駆逐艦135隻など。

空軍中将トラフォード・リー・マロリー卿指揮下に1,000機の空挺部隊を運ぶ輸送機を含む12,000機の航空機が上陸を支援した。ドイツ軍に対して投下するために合計5,000トンの爆弾が準備された。

最初の40日間の目標は次の通り定められた。

その後3か月の目標は次の通り

  • ロアール川南部とセーヌ川北東部の地域の制圧。

侵攻作戦の目標がパ・ド・カレーであり、また隙あらばドイツ占領下のノルウェーに侵攻する準備が整っているとドイツ軍に思い込ませるため、連合軍はボディガード作戦英語版という大規模な欺瞞作戦を展開した。この作戦の一部として行われたのがフォーティテュード作戦である。この作戦はフォーティチュード・ノース(ノルウェー侵攻作戦)とフォーティチュード・サウス(パ・ド・カレー侵攻作戦)の2つからなっており、架空のアメリカ軍師団が偽の建物と装備と共に作られ、偽のラジオメッセージがイギリス各地に送信された。更に作戦により現実味を持たせるため、その架空軍団の指揮官には当時謹慎中だったパットン将軍が指名された。また、上陸地点を南フランスであるとした欺瞞作戦『コッパーヘッド作戦英語版』を策定し、バーナード・モントゴメリー大将の影武者としてM・E・クリフトン・ジェームズ少尉を北アフリカに派遣した。

当然ドイツ軍も実際の上陸地点を知るため盛んに諜報活動を行っており、イギリス南部の広範囲にスパイ網を持っていたが、不運なことに連合国側に寝返った諜報員が多く、ほとんどの情報は上陸地点がパ・ド・カレーであることを確認するものであった。欺瞞は可能な限り続けられ、その地域のレーダーおよび軍事施設への攻撃は継続された。この作戦は徹底したものであり、ノルマンディーに1トンの爆弾を落とした場合はパ・ド・カレーに2トンの爆弾を落とすと言う具合で、あくまでノルマンディー方面はフェイントであり、パ・ド・カレーが連合軍の主目標であることを印象付ける事を目的としていた。

また、フォーティチュード・ノースを支援するためにスカイ作戦と言う欺瞞作戦も展開された。これはスコットランドから無線交信を使用して、侵攻作戦がノルウェーあるいはデンマークを目標としていることをドイツのアナリストに認識させるために行われた。ドイツ軍はこの架空の脅威の為、この地域の部隊をフランスに移動させなかった。

連合軍は上陸に備えて特殊装備を開発した。パーシー・ホバートPercy Hobart)少将指揮下のイギリス第79機甲師団英語版の装備する特殊車両は「ホバーツ・ファニーズ」「ザ・ズー」と呼ばれた。同師団が開発、装備した車両群は、水陸両用D.D. (Duplex Drive) シャーマン地雷除去戦車シャーマン・クラブ、戦闘工兵車チャーチルAVRE(Armoured Vehicle Royal Engineers)、火炎放射戦車チャーチル・クロコダイル、架橋戦車チャーチルARK (Armoured Ramp Carrier)などである。

1944年5月当時、上陸作戦に備えてイギリス国内に駐留したアメリカ兵は約150万人に上った[2]

また、補給物資を効率的に揚陸するため、「マルベリー英語版」と呼ばれる人工港湾施設アメリカ軍とイギリス軍がそれぞれ1つ準備した。この「マルベリー」は潜函(ケーソンと呼ばれるコンクリート製の箱)、浮橋(ポンツーンと呼ばれる、40t用と25t用など数種類有る)、消波ブロック及び沈船を組み合わせたもので、ル・アーブル港を使用できるようになるまでの半年の間、燃料を始めとする約120万トンの補給物資の揚陸に用いられることになった。

更にフランス各地に対する空襲が強化された。交通網は寸断され、防衛準備のための機雷搬送に遅れが出たため、上陸前に設置できなかった。また、フランス市民の死傷者も増加し、防衛戦用に約9万床増設された病院のベッドはフランス市民の入院者によって使用されていたという。

作戦予定日は当初5月1日となっており、テヘラン会談ソ連に通告された。しかしその後3週間の延期が決まり、さらに6月1日に変更された。5月15日には再び変更され、作戦予定日は6月5日となった。

かねてから自由フランスのカリスマ的指導者であるシャルル・ド・ゴール将軍の強硬な態度を嫌っていたフランクリン・ルーズベルトはこの作戦に参加させないようにしたがっていたが、ウィンストン・チャーチルの説得で直前に知らせることにした。この作戦を二日前に知ったド・ゴールはすぐさまアイゼンハワーの下に赴き、「フランスでの戦闘はフランス人が行うべきであって、指揮をとるのは私でなくてはならない」と激しく詰め寄ったという。アイゼンハワーも作戦の参加を認めないわけにはいかず承諾したものの、結局フランス軍は小規模な兵力で臨まざるを得なかった。

オマハ・ビーチにおいては米第1歩兵師団が最悪の苦難を経験した。ここでは他の海岸に比べ特殊装甲車両の装備が少なく、さらにオマハに割り当てられた水陸両用戦車27両の多くは高潮の影響で次々と浸水し、海岸に到着する前にほとんどが失われた。更に、上陸用舟艇10隻も戦わずに沈没するハプニングに見舞われている。

しかも連合軍にとって悪いことに、当初海岸に配備されていたドイツ側の守備隊は二線級の第716歩兵師団と予測されていたが、実際は東部戦線における激戦の戦闘経験を持つ第352歩兵師団であった[7]。第352歩兵師団は連合軍の知らぬ間にオマハ正面へ布陣しており、その火点の多くが事前の航空爆撃艦砲射撃にも生き残り、上陸部隊を猛烈に攻撃していた。

彼らは海岸を見下ろす険しい崖の上を拠点とした。公式記録は次のように述べる。

「上陸10分以内に(先導)部隊は指揮官を失い活動能力を失った。指揮をとる全ての士官および下士官は戦死または負傷した。……それは生存と救助のための闘争となった」

上陸部隊の第一波は独軍守備隊の抵抗により海岸へ釘付けとなり、死傷者が続出。そこへ第二波以降の部隊が次々に詰め掛け、海岸線はパニックに陥った。その光景はさながら、地獄絵図そのものであった。

多大の犠牲を払いながらも、連合軍は午後1時頃には防衛戦を突破。夕刻までには1・5キロメートルほど内陸へ進出した。

2500名とも、4000名とも言われる、多数の死傷者が出たが、それにもかかわらず生存者達は再編成され内陸に進撃した。死傷率が一番高かったので「ブラッディ(血まみれの)オマハ」と呼ばれている。

オック岬のドイツ軍コンクリート要塞は米第2レンジャー大隊の攻撃目標であった。彼らの任務は敵の砲火の下ロープと梯子を用いて高さ約30mの崖を登り、ユタとオマハを射程とした要塞内の砲を破壊することであった。部隊は到達に成功し、おそらく前日の爆撃中に移動された砲は見つかり破壊された。上陸部隊の死傷者の割合はほぼ50パーセントだった。

オマハ・ビーチとは対照的に、ユタ・ビーチでの死傷者数は197名で全上陸管区中最少であった。これは、潮流や視界不良などにより、当初予定されていた上陸地点を東に2kmほどずれたのが、かえって幸運だったためである。23,000名が上陸を果たし、彼らは内陸に進撃を行って先陣空挺部隊との連絡に成功した。